私の心は、闘う対象相手に対して、策略を巡らせる傾向があるがちな人間だ。
このところ当今、私の心を捉えているのは我々の目前眼の前で築き上げられつつある軍隊のことだ。世界が直視したがらない、巨大な脅威だ。
今まさに、世界中に恐るべき瓜二つ人間の繁殖が急速にはびこっているというのに私たちはこの現象を特に気に病むことなく、無言で彼らが増殖するしていくのを傍観しているただ眺めている。
私たちには彼らの本来の意図も、不気味なコンセプトの影響力も想像できないが、それが恐ろしい速さでネットやチュートリアル、セルフィー上で猛威を奮っているということは知っている。私の警告を真剣に聞いて欲しい。インスタグラム省に属する当この軍隊は1億1800万を超える兵士たちで構成され、キム・カーダシアンをリーダーとしている。彼女こそが、彼らの預言者であり、最高指導者であり、羊飼いの星だ。
キム・K、カタストロフ《大災害》のK。彼女こそ、彼らにとってのドゴール将軍であり、軍隊じみたセクシー化訓練によってアバズレ惑星上で最も位の高い女となった。歌手レイJとのセックステープが彼女を文字通りスターダムにのし上がらせたのは皮肉なことだ。
世界中に散らばる何億という小さな兵士達は、彼女達のアイドルに近づきたいというただ一つの強迫観念しか持っていないようだ。同じ服装、同じヘアスタイル、同じ多層メイク。扇情的な態度セクシー風な振る舞いと膨らませた唇、わざとらしく虚ろな眼差しも不可欠だ。
一体彼らの目的は何だろう?何を望んでいるのか?
私なりに考えた。彼らは世界を一様化画一化したいのだ。我々をプラスチック化し、スナップチャットのフィルターの中に閉じ込めたいようだ。彼らは私たちの欠点、存在していない欠点でさえも消去したがっている。近い将来、個性とは全てを消し去ることだと私たちに盲信させ、私たちの生活をこっそりリタッチしたいと欲している。
もし彼らの憂鬱な画策作戦に従ったなら、己の個性は根絶させられ、私たちは個性を持つことに対して弱々しく無力になってしまうだろう。
その上、彼らは私たちに笑うことをやめさせようとしているに違いない。(そう。写真を撮られる時、みんな決まって引きつり顔になっているのにお気づきだろうか?)
皆がキム・カーダシアン顔になってしまった世の中とは一体どんなものか?
私たちは彼女の空っぽな眼差しと、何でもアリなヘアスタイル、異常に膨らんだヒップ、体型に反して絶望的に細いウェストを持つようになる。いまにも爆発しそうな唇、異常な熱意を持って前方に突き出されるあまり自分の予定よりも先に進むかのようなバスト。
多くの人々、女性たち、若い女の子たちが夢中でこの見本を追いかけ、追いつく間にキムと忠実な将校達はすでに他へ向かっている。彼女は兵士たちを不寛容で不自然な、自己認識さえもない意識すらしない流行という別の道に導こうとしている。
当然のことながら私たちは皆そっくりになる。互いを仲間と呼び、肩を叩き合うだろう。余談だがトルコ語『Kardash』は『同士』という意味だとご存知だろうか?これはただの偶然だろうか?(私の妄想ということにしておこう。)
私たちのビフォアー/アフターは人々をあっと驚かせる。
懐疑的な私の性分はさておき、この一大計画は恐るべきことだと認めて欲しい。
今ではビューティ指南やメイクレッスンのチュートリアルビデオは瓜二つ人間だらけだ。ひどい失敗作には言葉も出ないほど!彼女達の一部はマラケシュの市場の地べたに置かれた贋「シャネル」バッグと同じくらい信用のおける代物だ。私だって「マダム、これは正真正銘の100%革製だよ、ウソじゃない。」とあまりにもぬけぬけと断言するアラブ商人(バッグも売るがラクダ使いでもあり、グナワ音楽で猿を踊らせるのに長けている)の言葉を1度や2度ならず信じかけたことは白状しなければならない。
問題は、どうしたらこれに抵抗できるのか?ということだ。よって、私は声高に訴えを表明する : 我々をカーダシアン化するのはやめて。なぜなら、このカーダシアン化に抵抗しなければ私たちは笑うのを止めてしまうから。写真でも鏡の前でも、私たちはただの表面的でフィルター化された社会の悲しい反映になってしまうだろう。
美しさとは、個性、オリジナリティ、一人ひとりの違いを形成するものの中にある。
美しくあること。それは自分らしくいることであり、皆と類似化同じ格好をすることではないし、ましてや誰にでも似れば良いというものではない。
私は贋「シャネル」バッグ売りに対しても、フォロワーが増えるたびに整形手術の数が増えていく理由を説明するユーチューバーに対しても戦いを挑まない。自分なりの美しさを表現するより、あこぎなテクニックを駆使して雑誌の見世物に成り果てた女性達に対して何の敵意もない。
ただ、自分自身の個性や美醜の自己判断力を遠ざける流行の勢力に、一人ひとりが抵抗することを提案したい。
型にはまった美しさの強制に抵抗しよう。
もしそれに抵抗するならば、本物のシャネルと下品な偽物の違いを知ることも決して忘れてはならない。私たちは自然体の女性と、画像処理された悲しい人形との違いを永久に知るはずだ。
そして、マラケシュでグナワ音楽にあわせて踊り続ける猿のこともまた、私たちは美しいと感じるだろう。
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